昭和57年9月23日 秋季霊祭 【 末永信太郎 】
只今、秋の御霊祭りを終わらせて頂きましたが。お祭り中に頂きます事。天地の親神様と私ども、これは親神様で、これが私ども氏子であります。ね。これに、中のいわゆる遺族親族の言うなら御霊達がこう、立ち揃うた時に、こう、まっ、自由に色んなものが握れる。これだけでは握れませんね。ね、これが天地の親神様。これが人間氏子。で、私の方で言うならば、大坪の家の遺族親族の御霊。家内の里の鶴谷の家の御霊の神。また、若先生んところの家内の里である、小西の家の、もうとにかく身近に、家の身近な御霊たちが、こう生き生きと助かってくる。
ここに初めて、本当の人間の幸せの条件が足ろうようなおかげを頂く事が出けると言うのですからね。今日、御祭典中、次々と御神撰がこう運ばれます。中に、今日私がここを立つ時に、ある方がお父様が大変お花が好きだったからと言うて、もう真っ白い、もう見事なバラを、見事なリボンをかけて、お供えになりました。で、それが出て来ると思うて出て来ませんから、まあ、言うたところが、まっ、今そこへ、まあ、坪に入れて来てあるようですけれども。
もう、あのままでも良かったからお供えすれば良かったのにと、まあ、そこにあるならお供えしてもらおうと思うて、こう申しましたら、そん時に頂きます事が。もう、それこそ、(いくう、いくうだけかも?)知れないほどしの沢山な白いバラを、もう、まっ、今日のここにあった御霊様達にでしょう。一本ずつこうやってずっと配ってあるところを頂きましたよ。真心というのは、そんなもんです。
ね、これはお父様がお好きだったからと言うて、なら十本か二十本のこの綺麗なバラをお供えしたつもりだけれども、お父様のその御霊でしょうか、その、それを一緒にお参りし合うておる御霊達に、一本ずつこう分けておられると言うのです。ね。ですから、真とか、この真心というものがね、いかに大変な事に繋がって行くかという事が分かります。また、それを信ずることが信心なのです。
ね、皆さんが、例えばお父さんがお神酒が好きだったから、または甘い物が好きだったからとこう、お供えをなさったのは、それはお重箱いっぱいかも知れません。けれども、それはもう限りないものに、その真というものは広がり繋がって行くという事でございます。合楽で言われます、この世はあの世のためにあると。ね、これは分かれば分かるほどこの世はあの世のためにあるのですから、この世を大切に生きなければいけんのです。どういう生き方をするかと言うと、真の生き方をするのです。ね。
今朝からも皆さんに聞いて頂いたんですけれども。かわいいと思う心が神心じゃと御教えがございます。かわいいと思う心が神心なん。ね。普通で言う、可哀想だとか、かわいいという、何か信心がなくても非常に情の厚い、親切な方がございますけれども。信心で言う、教祖の神様が仰る神心とは違う。先だって、お道の偉い先生が、書いておられるのを読んでもらったんですけれども。ある偉いお寺のお坊さんが、その先生に問われました。仏教では慈悲を説きます、キリスト教では愛を説きます。金光教では何を説かれるのですかと、聞かれたと言う。
先生、ちょっと戸惑われたん。ね、時に、まあ、心に浮かんだのが、ね、かわいいと思う心を説きますと言われた。私はそれを読んで聞かせて頂きながら、そのかわいいと思う心だけじゃ分かるまい。かわいいと思う心が神心と仰る。金光教では神心を説きますと言われたらよかったのになと思った。神心とはと聞かれたら、かわいい心と言われたらええだろう。そこで、んならば、お道の信心で言うかわいい神心。かわいいと思う心が神心と言われる神心とは、結局私ども自身がね、その神の心を心とする生き方を身につけて行かなければ生まれてまいりません。
人間に心から生まれて来るのは、それは人間心のかわいい心である。こちらが、日々、まっ、天地日月の心になる事肝要と言われる、それを合楽理念では、まあ、あらゆる角度から、ね、説きます。それを、んなら、天地の心を心とする生き方が、段々身についてまいります。そういう心から生まれてくる神心なん。それが、神心なんです。今日は、もう今日は繰り返し繰り返し皆さんにこれは聞いてもらおうと思うた事ですから、また聞いて頂くわけですけれどもね。
天地日月の心。もちろん、ここでは天の心とは麗しの心、潔い心、無条件の心。ね。無条件の心であります。いわゆる、最近御用という事が言われますが。ね。もう、本当に日々が、ね、この神心を持って、言うなら無条件の心で御用に立ちさわらせてもらって。今日も結構な御用にお使い頂いて有り難かった。玉水の湯川先生がお説きになる、ね、神様がご主人様ならば、ね、その店で言うならば店主である、会社であるなら社長さんは、その神様の一番番頭だと。家内は、女中頭だ。そこで、このご主人のお心に叶う生き方をしなければ、おかげは頂かれんぞと。ね。
家の社長はどうも、ね、自分の事ばっかりをする。会社から沢山給料をもらいながら、自分の私用の事ばかりをすると言うならば、やっぱりその社長さんはやんがて首になるでしょうね。家の女中頭はどうも油ばっかを売ると、こうなったら、やっぱり神様の御信用は付きませんでしょうね。なるほど、そういう生き方であの玉水の教会が、ああいう、まあ、商都?と言われる大阪であれだけのごひれいを受けられたんだ。私は御用とはそうだと思うです。
神様がご主人。だから、自分は、んなら、一小僧である、番頭さんである。だから、その番頭さんが、主人思いの一生懸命の御用が出けよれば、それを主人が見そこなう事のあるはずがない。ちゃんと神様が見てお出でる。ああ、あの小僧はなかなかやる。も一時したら、いっちょ何処かに支店長にでも出そうかちゅうごたる風になって来るもんです。もう、御用とはそういう御用。一日を振り返ってみて、はたして、ね、そういう御用が私用になってはおらんか。
今までは私用と思いよったのが、おかげを頂いて、御用が出けるようになったという事なのであります。ね。その御用のその内容というものがね、結局尊いもの、有り難いもの。昨日、この、大木から吉田さんという方が、毎日熱心に自転車で参ってる。しかも教えを頂くとは楽しゅうて参ってきます。もう、本当に、まあ、長い信心じゃありませんけれども、合楽の信心を、もうぐいぐい血に肉にして行っておるという感じであります。ね、最近では、ね、その自分の姑親も御一緒にお参りになります。
自分の里の(くろいわさん?古屋さん?)ご一家もお参りになります。というように、その信心が、こう広がって行く。昨日もお参りをさせて頂いて、親先生今日はおかげ頂きました。昨日は親先生、もう、しげおっちゃまんとこのほうれん草を頂きました、沢山。ね。隣の方が、久富繁雄さんところに、毎日、まあ、何と言うでしょうか。その、働きに行かれるんですね、お野菜の手入れのお手伝いに行かれる。
それでその、ほうれん草をかけたのを沢山あるから、ね、自分のところにも、もろうて行きなさいよるけども、まあ、お宅の隣が吉田さんならば、吉田さんところにもあげて下さいと言うて、きれいなほうれん草を沢山託けられた。それが、もうしげおっちゃまん所から頂いたちゅうのが有り難かった。もう本当に、こげな美味しいほうれん草は初めてでしたと、一家中の者が喜びましたが、親先生、今日はまたそれにおかげが伴うて来ましたち。
何かその、泥を欲しいと思うておられたところが、村内の方が、あんたん所は泥がいるて言いよったからと言うて、トラック3杯もわざわざ持って来てくださった。これは、もうまったくしげおっちゃまの信心が、こう続いておるとですと言うて、今朝から参って来て、そのお礼のお届けがありましたよ。ね。まあ、言うならば、繁雄さんの所の、それは信心のない嫁達やら息子達が致しましております事ですから。どこにお粗末がご無礼があるやら分からんけれども、畑の真ん中に入ってから、お野菜にお礼を言う時に。
ね、私はこの事は、あの、大阪の講演の時に、私と泉尾の先生二人だけの対談がございました。もう、人には聞かせないという話。そん時に、あの繁雄さんがいつも側についておってくださって、その御用する様子を見られて、大坪先生、私んところにはこういう信者がおりませんと仰った。それを私が、この人のと言うと言うて話をした事ですけれども。ちょうどその日、私はたまたま繁雄さんから聞いておりました、あの、沢山のもう、こう何畳という畑を作っておられますから。そこのキャベツがいっぱい出けております。
ね、ある方があの、繁雄さん一日の内で一番有り難いのはいつですかと問われた時に、もう百姓ですから、いっぱい、今、カンラン?を作っておりますが。そのカンラン畑の真ん中に立って御祈念をする時。もう、これが一番有り難いですち。ね。神様、おかげで、こういう素晴らしいお野菜が出けました。神様がそれに応えて言いよんなさる。いやいや、お前達がそれこそ、種を蒔いたり、草をとったり。肥料を施したり、手入れをしてこんな立派なお野菜が出けたんじゃ。
いいえ、とてもとても、私どもで出ける事じゃありません、神様のおかげを頂かなければ。いいや、お前達の精進、努力が実ったのじゃと、こう、神様と氏子とが喜び合える、お礼の言い合える、そういう私は御用こそ、本当の御用と言うのじゃないだろうかと思います。今日はご苦労さん、おかげを頂きましたと。昨日、吉田さんが言われる、昨日はその吉田さんのところに、そのおっちゃまのところの、まっ、ほうれん草を頂いた事が有り難かった。
もう、こげな有り難い、美味しいものをそして頂いたら、今日は、有り難い有り難いて言いよったら、繁雄さんの御信心を泥の信心と言われるが、その泥までがトラック3杯も、しかも無償で持って来て下さるようなおかげを頂いたと言うて、これは今朝からのお届けでした。ね。お互い、一つ本当に御用が、御用のようであって、修行。1,2,3,4,5の、5であるならいっちょ足らん。ね。御用、御用と言いよるけども、まるきり取り立ての役人のため、が持っとる御用のごたる。
ね、取り上げにならんから、取るから御用、御用て言いよるとでは、言うのじゃね。今日も親先生、どうぞ忙しゅう御用にお使い回し下さいち。こう言います。今日もどうぞ商売が大繁盛しますように。それに、お使いまわし頂くということは有り難いけれども。それは、儲からんならんから、御用ご言うておるという、そこに来たところをね、こう極めて参りますと、限りないその、まっ、御用の内容という事にその深さを感じます。
ね、その、深い広い意味合いの御用が、日々でけるという事。ね。神様をご主人とする。私どもは一使用人としての頂き方。そこに良い勤めが出ければ、よい給料も払うて頂くでしょう。良いタイミングも受ける事が段々でけるようになって来るでしょう。ね。そこにね、日頃の、いわば天地日月の心を心とする生き方をしなければなりませんが。今朝から頂きます、心のあの御理解の中に、ね、かわいいと思う心が神心じゃと。金光教では神心を説くのだ。
そんなら神心とは、私自身が神の心を心とする生き方を身につけて行かないと、生まれて来ないのが神心である。ね、それがいかにも人情だ、親切のようであっても、それはどこまでも人情であり、親切である。ね、神心で繋がらない。そこで、私は今日は、日月の心になる事肝要と仰せられる日月の心を、いよいよ身につけなければいけないというお話を、今朝から皆さんに聞いて頂きました。日月の心と言えば、ね、これほど贅沢なものはなかろうと思われるような心を、心とする生き方。
ね、そこで、いわば最近一切の物を、御物じゃが。御時間を大切にしよう。ね、時間をお粗末にするまい。正確無比な生き方を身につけようて。ね。例えば色んな、んなら今日の御理解なんか、あの、お祭りでも。ね、もう1時にはここへいっぱいの方達がお参りになっとられる。いいでしょうが、はじめからここへ座っとったら。ね。それを、10分前、20分前に来とくと、もう心にゆとりが出けるでしょうが。はあ、もう遅うなりどんはせんじゃろうかと思うて、汗ぶるぶるで、はあ、よかった、間に合うた間に合うたと言うでも有り難いけれども。ね。
もう、間に合うたら、もう、半ばじゃったというのとは、もう大変な違いになる事を、今朝の御理解に聞いて頂いたんです。心にゆとりが出ける。ね、心が豊である。もう、本当にもう、今日の御理解頂いて、もういよいよ思うた事はですね、もう、ゆとりのない心、イライラしておる心、腹立だしい心は、もうタイミング、素晴らしいおかげを願っておるこうタイミングがね、外れてしまう。タイミングを崩してしまうという、今日はお知らせを頂きました。はい。
ね、お願いをするから、んなら、おかげがこうやって来よるけれども、自分が腹を立てたり、イライラしたりするもんだから、ここで( )しまいよる。ね。だから、これはどうでも時間を大切にするという事、言うならば、んなら今日の御理解が1時のですから、1時前なら、30分前なら30前に来て、ね、ゆっくり豊な心で、ゆとりのある心で、そういう心がお参りだけじゃない、すべての事柄の上に、それが凝縮される時に、その心こそが、私は日月の心を神習う事じゃなかろうかと思います。
日月の心を神習うという事は、もうそのまま天地日月の心になった事になるのです。もちろん、これが地の心もいりましょう、天の心もいりましょう。それを、いわば日々の生活の中に、ここは天の心で、ここは地の心でと頂いて行く信心なんです。ね、天地日月の心が身についてくる。ね。なら、まあ、ここで手本のように言われる久富まさき先生なんかがそうです。もう、狂わないですよ、この人は。何処何処に行くちゅう時でも、もう絶対来るから、もう絶対、もう待っとって、もうキチッとした事です。
朝の御祈念なんかもちろん、ゆとりのある、言うなら参拝をする。今日の御理解の中にね、そのゆとりのある、ね、心豊に過ごすという事に、豊なおかげが約束され、ゆとりのある生活が約束される。たいがい熱心に信心しよる、御用も頂きよるけれども。どうも、その、ちぐはぐで、素晴らしいタイミングになって来ないならば、これはね、今日の御理解。これは私は、その、御時間をね、御時をお粗末にしておるんだ。これは、いよいよ自分の身に、血肉にして、もう、この事だけは、んなら5分、10分早く行くていう事は、勿体無いごともあるけれども、心にゆとりが出ける。
すんましぇん、どうも遅うしまして何時もと言うて行くのと。ね、待っとる方のいわば生き方を自分の信条とするという事は、そのまま天地日月の心なのです。ね。ですからね、事柄ね、言うなら素晴らしいタイミングが生まれて来ると言うのですから、今日、私はいよいよ持って、この御時というものを大切にして、自分の心にも、ね、豊なゆとりのある心を頂かせてもらう。そういう心で信心をするから、ゆとりのある、ね、豊なおかげが約束されるというのですから。ね。
それを一つ信じて、もう、今日から只今からこの実行に移らせて頂こう。まっ、今朝からそういうお話を聞いて頂いた訳です。昨日、私はいつも、ここ四時半に下がって、それからあの、夕食をするんですけれども。夕食の時に、いつも美都肛門があっております。あの、同じ筋のようなもんですけれども、やっぱ面白いから、私がそれを見るんです。昨日は、ある漆器ですね。売るし、漆器の職人が、その主人と弟子とがあることで殿様からけんじょう品を頼まれる。
そこで、弟子と師匠が腕比べという事になった。ほらあ、もう、そのお前のごたるとが、その、そういう俺と比べるてん何てんち言うて、まあ、師匠が腹かいておりますけれども、殿様から二人の作品をと言われておるので、もう、それこそ水氷とって一生懸命やってる。期日が来た、立派に出けた。師匠が作ったのは、それこそ、もう思いも(あやんな?)その、極彩色の模様の入った坪を作った。片一方はあっさりした、まっ、ききょうか何かの花のものを出しました。
ところが、その殿様が言われるのに、これは見事だと。師匠が作ったのは見事だけれども、あまりに見事で、これに花を差しても、花が生きらないとお殿様が言われた。これは、まあ、あっさりして何だけれども、花が生きる。まっ、どちらかって言うと、このあっさりした方の、この弟子が作ったのが良かったとこう。これは、例えばその、テレビを見て見せて頂きながらね、はあ、これは、こっちん方が必ず良いという事も分かるんです、見よってね。
完全懲悪のいつも映画ですから、もう、どんなに威張っとっても、悪いヤツはもう必ず、ね、こうやって。これが目に入らんかちこう。もう、それ聞いて、ははあ、と言うてしまう事はちゃんと分かってるんだけれども。やっぱ、見よってから面白い。ね。それがこう見よってですね、はあ、これは弟子が作ったのが必ず、殿様が気に入られるな。わかってる。そこんところが、見せて頂きよりましたら今日の御霊おお祭りの事を頂くんです。
皆、信者氏子がね、目に見えない神様、目に見えない親と、親先祖の例えば御霊なんかというのですから。実を言うたら、こんなに頼りないものはないのだけれども、真だ真だ、真心だと言われるから。ね。まあ、言うならば、お爺さんが好きであった、おばあさんが好きであった、それで、もう真心こめて作る。ね。と言う事がね、もう、言うなら、その、美都肛門を見ておってから、はあ、これが必ず後は、勝利になるという事が、これがおかげを頂くという事が分かっておるぐらいにでも分かれば、神が受けるという意味の事を頂いたんです。
映画を見とって、例えば美都肛門の筋を見よって、はあ、これが後からは威張っとるばってん、やりつけられるな。これは今、悲しみよるけれども、かならずこう、美都肛門がこれを引き上げるな。分かるでしょうが。筋がちゃんと分かっとる、毎日のが。ね、だから、筋を見て、はあ、これが善、これが悪という事が分かる程度にでも良いから、分かったら、ね。本当な事は分からん。この世はあの世のためにあると言われるばってん、それも本当な事はあの世の事じゃけん、実際はわからんけれども。
親先生がああ仰るからと、んなら、真を尽くして見る、真を練り上げて行って見る内にです、そこに生まれてくるのが実証です。真が欠けておっても、真が欠けとらんかのように神様が受けて下さるのです。皆さん、例えばお家で、ね、今日の御霊様に甘な辛なの一つも出けてなかった人は、家帰ってからでも良いです。家の御霊様の前に、ね、お爺さんの好きだった、例えばそのお酒の一つもお供えをする、とか、牡丹餅の一つも作るその真心がね、神様が受けた、出けた事のようにして受けて下さるんです。
信心ていうのは、だいたいそういうところから、信心が生まれて来るんです、信ずる心というのは。ね。結局、ああ、真とか真心のいわば追求なんです。ね。はあ、もう、今日の御霊のお祭りにこんな用件が出けた。参らんならんけれども、お参りが出けん。と、例えばいよいよの場合であってもです。ね、そん時にもし出けるならば、今日は合楽の御霊祭りですけん、今日だけは出けませんからと。例えば、そういう生き方をね、身につけて、和賀心を、言うならその事柄を中心にせずに、信心を中心にして見るのです。
ね、そこから、例えば何か御霊のお祭りを本当に感じたと。その感じる事が、私は死ぬる事に繋がってくると思う。信心は、ね、御用なり。(しゆう?)は光なり。本当に今日一日一日を、ね、御用で現しめて下さいというような願いを持つ事から、日々神様の働きを感ずる。ね。その、御用が御用になって行くに従って、自分の心に真の心が生まれて来る、信ずる心が生まれて来る。実証が出けて来る。その実証こそが、光なのだ。これは佐田先生の有名な言葉ですよね。信心は御用なり。真?は光なり。
意味が分からなかったけれども、ここ2~3日の御理解頂いておる内に、ね、なるほど御用が本当に御用で出けて来れば来るほどです、今日も結構な御用をさせて頂いて有り難うございましたと。と、神様にお礼を申し上げる時に、神様から、いやあ、ご苦労さんでしたというような言葉が返ってくるような思いがする。ね。神様から、ね、それこそさっきのお野菜の話じゃないけれども。
おかげで、こんなに見事に出けました。いやあ、お前達が一生懸命嘆声こらしたから出けた。いえいえ、いくら嘆声こらしても、神様のおかげを頂かなければ出ける事ではございませんと、神様と私どもがこう、お礼が言い合えれる、そこから本当の合楽世界というものが開けて来るんじゃないでしょうか。ね、そういう御用を、日々続けて行くうちに生まれて来るのが、真であります。真は光なりです。ね。言うなら、神様を信じて疑わない、いわゆる信心が段々育って行く。
ね、このようにして、例えば天の心、地の心。今日はとりわけ、んなら、日月の心を自分の信心、生き方の信条とする。もう、この人ばかりは絶対間違わん。と、人からの信用はそのまま神様へからの、信用にもなるのです。もう、この男ばっかりは分からんち。あれが言いよった事っじゃけん、ほんなこどうか分からんがのと、本当の事でもそういう風に言われたり、思われたりするのと、いや、あの人がこっじゃけん、間違わん。例えば、たまにそれは間違うても、あの人が間違うたっちゃけん、よくせきなこっじゃろうち、こげん言う。ね。
私は今日は、天地日月の心。金光教で説くのは、言うならば、ね、かわいいと思う心が神心を説くのだ。その、神心から生まれて来るかわいいという心であって、初めて、ね、金光教では神心を説くという事になるのじゃないでしょうか。天の中からでも、天の心を頂かにゃいかん、地の心からも、地の心を自分の心に頂かにゃならんが。日月の心の中からも、そのような時を尊ぶとか、大切にするという事が、そのまま日月の心であるならば。ね、その日月の心を自分のものにしよう。間違いのない自分にならせてもらおうという願いを持つところからです。
ね、日月の心が、自分の信条になる。ね。そこに、初めて、言うならば人からの信用も、神様からの御信用も受ける事が出ける。ね。日月の心が自分のものになる、天の心、地の心が自分のものになって来て、初めて言うなら、神の心が自分心。いわゆる天地人一世の世界にも住む事が出けるという事になるのじゃないでしょうか。そして、初めて金光教では、神心を説くという事が言えれるのじゃないでしょうか。この中には、慈悲も愛も入ってまいります。金光教の信心はどこまでも、神心を説くのです。ね。そこから生まれて来るかわいいと思う心が、ね、社会生活の上にも、いわゆる人間生活の上に、それが現されて行く時、初めて、本当のいわゆる和賀心時代が出けて来るという風に思います。
今日は皆さん、今朝の御理解を、まあ、信じて聞いて頂いたんですけども。皆さん、この時を、いよいよ御時としてね、お粗末にしない事。これは、難しいこっじゃなかろうと思う。ね。日月のような正確無比の心を、自分の心に頂くという事は、そのまま神の心を自分の心に頂くという事になるのですから、ね。時を大切にするというか、尊ぶという生きかた。言うなら、ゆとりのある生きかたをするから、ね、ゆとりのあるおかげにも繋がる。豊な生活が出けるから、ね、豊な心の状態があるから、その豊なおかげも、また約束される。
お互い願ってるんです。素晴らしい日々の中に素晴らしいタイミングが生まれて来る事を願っておるのです。ね。その間違いが、その、まっ、よかよかというようなものがね、神様もよかよかで、こげんするごつします。おかげも、よかよかになってしまう。ね、ピチッとこう、頂き止めれる信心を、いよいよ身につけて頂きたいと思います。いよいよ、記念祭、記念祭。もう、口を開けば皆さん記念祭の事を言うておられるのが、記念祭に向かうその心もです。ね。本当に最近言われる、一切神愛。その、本当に一切神愛である事が分かるところからお礼が言えれる。
ね、そういうあの、神愛をいよいよマスターして行くという事は、いわゆる天地日月の心をいよいよ自分の心にして行って、初めて生まれて来る実証を持って、言うならば神愛と信じずにはおられない。ね、一切神愛論が、今合楽に説かれておりますから、そういうのが一つひとつ自分の身に繋がり、ね、血肉になるような信心を頂きたいと思います。どうぞ。